八王子の名前が初めて現れたのは中世の時代です。その名前の由来は、神様と八人の息子たちに関連しているのでしょうか?
紀元前5000年頃、現在の八王子市周辺に人々が定住し始めたとされています。この時代、日本全体で人口が急増し、竪穴式住居や貝塚が各地に築かれるようになりました。
八王子でもこの頃の遺跡が数多く見つかっており、特に浅川とその支流近くの段丘地帯には、数千年前から大規模な集落が存在していたことが明らかになっています。
それでは、八王子にはどのような歴史があるのでしょうか? また八王子で婚活する人に向けて婚活事情もご紹介していきます。
この記事では、八王子の歴史と住民の婚活事情について徹底解説いたします。
✔八王子の歴史
✔八王子の土着民の気質
✔八王子民の特徴
まずは八王子市民の特徴と婚活事情から見ていきましょう。
所在地:東京都の西部、多摩地域に位置する。
人口:約57万人
面積:約186.31平方キロメートル。
市のシンボル:高尾山
八王子市は自然が豊かで、高尾山などの美しい自然景観が魅力です。都心から電車で約1時間とアクセスが良く、住みやすい環境が整っています。また、学園都市であり中央大学や東京工科大学など、多くの大学があり、学園都市としても知られています。
江戸時代からの宿場町としての歴史があり、古くからの伝統と文化が息づいています。
八王子まつりなどの伝統的な祭りが開催され、市民の地域愛が強いです。
八王子駅周辺にはショッピングモールや商業施設が充実しており、買い物にも便利です。高尾山は登山やハイキングの名所で、年間を通じて多くの観光客が訪れます。
八王子市の平均結婚年齢は全国平均とほぼ同じで、男性が約31歳、女性が約29歳です。婚姻率も全国平均に近いです。地域の結婚相談所や婚活パーティーが積極的に開催されており、出会いの場が多く提供されています。
高尾山の自然を活かしたロケーションウェディングや、地元の神社での伝統的な和風結婚式が人気です。ホテルやレストランでのモダンな結婚式も選ばれています。
結婚後は共働き家庭が多く、家庭と仕事のバランスを重視する傾向があります。そのため、共働きを望む男女が多いです。子育て支援や教育環境が整っており、子育て世代にも住みやすい環境が整っています。
「八王子」という地名が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか? 調査してみると、どうやら中世あたりのことのようです。
ちなみに中央線を西に進むと、「じ」を越えるたびに気温がだんだん下がると言われています。具体的には、高円寺から吉祥寺、国分寺、そして八王子へと進むと、気温が下がる傾向にあるそうです。
(単に田舎になっていくだけ……?)
さて、なぜ「じ」が「寺」ではなく「子」なのか、という疑問がありますが、これは八王子だけが「子」と表記されるからです。
八王子の「じ」は寺ではなく、王子様の「子」を意味しているのです。しかし、実はこの表記にも寺社仏閣との関わりがあります。
八王子市によると、「八王子」という地名は、牛頭天王(ごずてんのう)という神様とその八人の王子たちに由来していると言われています。
牛頭天王はもともとインドの神様であり、中世になるとその八人の王子たちが八方を守る神と考えられるようになりました。こうした信仰の背景から、八王子神社や八王子権現として、全国各地で祀られるようになったのです。
八王子では、1913年に妙行(みょうこう)という僧が牛頭天王からのお告げを受け、その後深沢山(現在の城山)に八王子神社を開いたことが始まりとされています。
その言い伝えによれば、妙行が深沢山で修行をしていると、多くの妖怪が現れました。妙行がこれらの妖怪を撃退すると、神様と八人の童子が現れ、「私は牛頭天王で、八人は八王子と名乗っている」と答えたとされています。こうした出来事が八王子の名前の由来とされています。
さて、戦国時代になると、八王子周辺の支配権は戦国大名の北条氏に移りました。1584年頃、北条氏康の三男・氏照が深沢山に城を築き、「八王子城」と名付けたことが、八王子という地域の名前の起源とされています。
現在残る記録の中で、最初に「八王子」という地名が使われているのは、北条氏康の書状です。1569年5月8日付の書状の中で、氏康は「八王子筋(八王子方面という意味)」と記しています。
しかし、こうして「八王子」という名前が定着したものの、その後も地域は試練に見舞われることになりました。
1590年6月23日、豊臣秀吉の軍勢が小田原攻めの際、北条氏の重要拠点であった八王子城は総攻撃を受けました。
主な家臣が外出していたため、城には百姓や女子供しかいませんでしたが、彼らは辱めを受けることを恐れず、ご主殿の滝に自ら飛び込み、血で染まったという言い伝えが残っています。
この悲劇的な出来事が、「八王子城伝説」を生み出すきっかけとなりました。八王子の名前だけでも、その背後には非常にミステリアスな物語が詰まっています。怪奇な出来事や霊的なエピソードが、今もなお八王子に息づいているのです。
「八王子市内における新旧住民と学生の関係性」
この表題は少し堅苦しく感じるかもしれませんが、実はただの「八王子の旧住民、新住民、学生(大学生)の関係はどうなの?」という話です。
これらの異なる思考スタイルや気質を持つ3つのグループが絡み合うことで、さまざまな摩擦や問題が生まれることがあります。
八王子の「旧住民」、「新住民」、「学生(大学生)」がどのような人々なのかについて、順に説明していきます。
最初に「旧住民」について考えましょう。ただし、「旧住民」という言葉を使うと、最近地域に移り住んだ人々から見れば、その地域に長く住んでいる人々はすべて旧住民になってしまうかもしれません。
ここでは新旧住民の区別を明確にするため、旧住民を「土着民」と表現します。一般的には、ある地域に三代以上住んでいれば「土着民」とされることが多いようです。
親や祖父母の代からその地に住んでいる人々は、地域に溶け込んでいても、新住民の部類に含まれるとされています。
土着民として認識されるためには、少なくとも祖父母の代から住み、地域の活動に積極的に参加し、地元の祭りにも出席し、地域の人々から下の名前で呼ばれるようになる必要があります。
この土着民の三代理論に従うと、おおよそ昭和時代ぐらいまでに八王子に住み始め、その後も八王子に住み続けている人々が、現在では三代目にあたるころになるでしょう。
したがって、昭和30年(1955年)以前に八王子に住み始め、それ以降もずっと八王子に住んでいる人々が、土着民とされるラインとも考えられます。
それでは、その八王子土着民の気質はどのようななものなのでしょうか?
よくいわれるのは、プライドが高い、保守的、閉鎖的などだが、実際のところは地域によってその気質が多少違っているのです。
八王子の市域が巨大であるが、元々そのような規模ではありませんでした。周辺の町村が八王子市に編入されることで、市域が徐々に広がっていった歴史が存在します。
周辺町村が八王子市に統合される前、旧八王子市内は国鉄の八王子駅を中心にしており、市域自体はそれほど広くありませんでした。
しかし、1941年に最初に隣の小宮町が八王子市と合併しました。戦後は復興計画と合併が重なり、1955年には横山村や元八王子村など6つの村と同時に合併が行われ、1959年には浅川町、さらに1964年には由木村が合併され、現在の市域がほぼ確定しました。
このようにして八王子の市域が形成されてきました。八王子は異なるカラーや特性を持つ地域の集合体であり、それぞれの地域ごとに異なる気質が存在しています。
従って、土着民の気質も地域によって異なるのは当然であり、各地域を一様にまとめることは難しいです。八王子は異なる地域が共存し、多様性が存在する場所なのです。
とはいえ、これらの10地区それぞれの土着民の気質の違いを個別に論じても、地区ごとに極端な違いが見出せるわけではありません。より広い観点からグループ分けを行い、土着民の気質を比較することで、ハッキリとした違いを見ることができます。
このグループ分けの基準として使われるのが、中央線です。中央線を境に、北部と南部で土着民の気質に明確な違いが現れます。
具体的には、中央線を境にして、北部・北西部と南部・東南部に分けることができます。中央線を基準にすることで、この大きな区分によって異なる気質をより明確に捉えられます。
このようなエリア分けを通して、八王子市内の土着民の気質の違いを理解しやすくなり、北部と南部での違いが特に顕著であることが示されています。
中央線と甲州街道が動脈となり、絹織物を中心とした商業、そして養蚕を主要な産業とする農業によって栄えたのが、北部地域です。
歴史的にも八王子の本流と言えるこの地域では、土着民の意識が高いようで、プライドが高く、保守的で閉鎖的な傾向がみられます。これが典型的な八王子土着民の特徴と言えるでしょう。
こうした八王子市の北部地域の特徴について考えてみましょう。彼らは非常に鼻つまりが強く、そして「自分たちは東京都民ではなく八王子民である」という強い意識を持っています。
この意識は、自分たちがナンバーワンだという思いの表れであり、八王子市民は八王子を批判したり馬鹿にすることは絶対にしないと考えています。さらに、力と正義が暗黙のルールとなっており、八王子名物のヤンキーやチンピラが輩出されるのが、この北部です。
この攻撃的な気質は、現在の子供の親世代であるアラフォー世代に特に強く見られると言われています。この世代はかつて中高生だった頃に不良がもてはやされた時代であり、多くの人々がグレた過去を持っています。
北部の土着民は、こうした無頼感を八王子民の気概として表現しています。このような気概を称賛する向きもありますが、単に民度が低いと揶揄する声も存在する事実です。
なお、このエリアに大学生や社会人が一人暮らしをする分には問題ありませんが、家族全体で住む場合、地域によっては様々な問題が起こることがあるようです。
地域のコミュニティの結束力が強く、上手くコミュニケーションを取らないと、村八分とまではいかなくても同じような扱いを受けることがあります。東京都であるにもかかわらず、こうした地域の考え方は田舎そのものでしょう。
一方、南部地域について考えてみましょう。こちらは新住民の割合が高いエリアですが、もちろん土着民も多く暮らしています。
南部地域は、主に京王線や横浜線沿線を中心としており、ここの土着民は北部の土着民とは対照的に、開放的な気質を持つのが特徴です。
南部民は新住民との交流を積極的に行い、行事などでは土着民たちが新住民を歓迎する姿勢も見られます。
南部の土着民の中には、元々が農家の土地所有者であり、土地を売却して経済的な余裕を持つ者も多く、そのため経済的にも精神的にもゆとりを感じているようです。
南部民の気質は、保守的な考え方や地域の利益を守る姿勢を持つ北部の土着民とは一線を画すものであり、開放的で柔軟な特性が顕著です。
もちろん、南部の土着民も、自分たちの利益を守る姿勢や典型的な八王子土着民らしさを持っています。
人口増加が顕著な南部地域では、新住民との調和が重要であり、土着民と新住民が共存しながら地域を維持していくためには、お互いの利益を考慮しながら行動することが求められます。
南部地域の土着民は、北部と比べて八王子の本流という意識が薄いとされており、この違いが南部土着民の気質の柔軟さに影響していると言えます。
また、南部地域の第二、第三世代の土着民には、八王子市民としてのプライドを持つ人が少ないだけでなく、八王子市民であることを恥じる人も存在するようです。
こうした八王子土着民の南部と北部の違いは、八王子の文化や風土を理解する上で重要です。南部の開放的な気質と北部の保守的な気質は、八王子市の多様性を示す一つの側面と言えるでしょう。
八王子は東京なのに「田舎」と揶揄されることがあります。確かに北部や西部に行けば、東京とは思えないほどの牧歌的な風景が広がっています。
JR八王子駅周辺の市街地も、駅前の開発が進んではいるものの、まだまだ地方都市の雰囲気を漂わせています。ようするに都市全体が少し地味な印象を与える八王子に、コンプレックスを抱く人も多いのだとか……。
しかし、これは東京23区民の視点から見た場合の話です。地方出身者にとっては、八王子も十分に都会といえるでしょう。
それどころか、自然が豊富でありながらも都市のメリットも活かせて、八王子は住みやすい場所とされています。八王子に住む人たちは、八王子の特性を大いに愛しており、特に地方から出てきた人たちは馴染みやすいという人も多いです。
こうした人々にとって、八王子はある種の故郷感情を抱く場所でもあります。
一方で、八王子市民にとっては、このような見方はあまりにも短絡すぎると考えている人もいます。23区民から「東京の田舎」と呼ばれるだけでなく、神奈川や山梨の地域と勘違いされることさえあるのです。
(この点は本当に困ったことだ!)
さらに悪いことに、八王子の地名ですら正しく書かれないことがあります(八王寺など……)。
これらの事態に、八王子市民の自尊心は耐え難いものがあり。八王子市民の誇り高い心は、他人に理解されるべきものでしょう。地元の誇りを全面に出し、八王子をしっかりアピールする態度こそ大切です。
その一方で、若い世代においては、八王子市民であっても多少のコンプレックスを感じることもあります。特に思春期の若者にとっては、同じ東京でも23区との違いが、過度な劣等感を引き起こすこともあるようです。
こうした感情は、地元の魅力を再評価することで、新たな自己肯定感を得ることに繋がるかもしれません。
八王子の街そのものが静まりかえっている状況も、コンプレックスを助長する原因となっているようです。大手百貨店の相次ぐ撤退を始めとする、歓楽街や商店街の活気の低下は、以前との比較においても顕著です。
さらに、隣接する立川や町田が栄えているのに、八王子は停滞しているような印象を受けます。加えて、治安の悪化も、まるでスラムと変わらないほどのものとされています……。
こうした負のイメージが先行することで、八王子に対する評価が一段と低下し、結果的にコンプレックスを植え付けてしまうのです。
しかしながら、こうした若者や特に土着民の価値観は、年齢を重ねるにつれて変わっていきます。歳を経るごとに、「こんな八王子でも悪くないじゃないか!」と、開き直りの精神を見せる人も多いものです。もはや、手動でドアを開ける電車が存在していても、それに対する恥ずかしさを感じない……。
少しずつ自分たちの価値観が変化し、住民の雰囲気が落ち着いた魅力として認識されるようになるのです。
こうした価値観の移り変わりは、まさに通るべくして歩む道です。変化を経て、人々が多様な価値観を抱え、内輪の結束を強化していくのです。
・地域の発展が実は悔しい(立川コンプレックス)
・ただと思っているのに周囲に田舎呼ばわりされる
・東京都だと思われていない
・山梨と同一視される
・どんどんデパートが撤退していく
・八王子」という地名(の漢字表記)を正確に覚えてもらえない(「ハ王寺」などと間違われる)
・治安が悪いスラムのようなイメージを持たれている
※独自調査より
東京の方言といえば、下町で使用される「江戸弁」を想像する方が多いですが、多摩地域にも独自の方言が存在し、八王子にも今も特有の言葉遣いが残っています。
(しかし、若者が使う言葉はほぼ標準語)
八王子方言の中でも特に有名なのが「ウザい」です。これは「うざたい」(しつこくて不快)という方言から派生しており、現在では全国的に広く使用されるほど、全国に溶け込んでいます。
かつて使われていたものの、今ではあまり耳にしない「〜じゃん」も八王子の方言に存在しています。同様に神奈川弁(※もしくは横浜弁)としても知られる「〜じゃん」は、八王子でも一般的に使用されています。
同じように神奈川弁(※正確には東北弁)に含まれる「〜だべ」も、八王子スタンダードの一部です。多摩地域がかつて神奈川県に所属していた経緯から、方言の共通点があるのです。
また、「〜でがある」という表現も使われており、例えば仕事が忙しいときには「仕事のしでがある」と表現されます。標準語では「仕事のし甲斐がある」の意味ですが、ここでは「大変だ、つらい」という意味合いになります。
また、方言とは言えないかもしれませんが、八王子市民が「八王子(町)に行く」と言うと、実際には「JR八王子駅の周辺に行く」ということを指します。
八王子市民にとって「八王子」とは、JR八王子駅周辺のことを指すのです。地元の人同士が「待ち合わせは八王子」と言えば、お互いにJR八王子駅を指しているのですが、他の地域出身者にとっては「八王子のどこ?」という状況になるかもしれません。
「八王子市民の特徴や婚活事情!八王子の歴史と文化から探る」はいかがでしたか?
都会と田舎のイイトコどりの暮らしができる八王子は、市民にも柔軟さが感じられる特徴があります。都心へのコンプレックスを感じながらも、八王子の魅力を感じられる良いエリアですね。
この記事はラポールアンカー八王子が執筆いたしました。
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