川崎市といえばどのようなイメージがあるでしょうか。人口も多く、実は意外と文化的都市であり、スポーツも盛んで、自然や緑が多いエコタウンの一面もあります。
一方で、そうは言ってもらえない悲しい一面もあります。
「危ない!汚い!怖い!」など昔からのイメージもまだ残っているようです。歯抜けのおじさんが紹介されることが多々ある街としても名高いです。
※『月曜から夜ふかし』のイメージが強いのか!
それでは、川崎市にはどのような歴史やイメージがあるのでしょうか?
この記事では、川崎市の特徴を7区に分けてイメージや歴史を徹底解説いたします。
✔川崎市7区の歴史やイメージ
✔川崎市の実態調査
✔川崎市の住みやすさ
もくじ
川崎市は東西に長く、7つの区で構成されています。その特徴は様々あり、住む人々にもそれぞれの特徴や生活スタイルがあるといって良いでしょう。
それでは、川崎市7区にはそれぞれどのような特徴やイメージがあるのでしょうか。一つずつ見ていきましょう。
川崎区の玄関口、JR川崎駅は二つの区(川崎区と幸区)の境界線上に存在します。境界線になっているのはJR東海道線とJR京浜東北線の線路。
その路線駅である川崎駅は東側半分が川崎区となり、駅構内の西側半分が幸区となっています。駅の改札を抜けて右側に歩けば、そこが川崎区にあたります。
川崎区は区名に「川崎」が付くだけあり、位置付けとしては川崎市の中心です。実際それを示すかのように川崎市行政の本丸、川崎市役所は川崎区にあります。
川崎区は歴史的に見ると、江戸時代に東海道の品川宿に続く2番目の宿場町(川崎宿)としてに賑わった場所でした。また、江戸に入る旅行者たちからすれば最後の宿泊地だったので、川崎宿には歓楽街が形成されて大いに賑わったといいます。
(堀之内の風俗街は川崎宿の面影を今に伝えています)。
また、川崎大師への参拝で大勢の人たちが訪れた「門前町」という側面もありました。つまり、江戸時代の川崎とは一大行楽地だったのです。
しかし明治時代後半になると様相が一変します。臨海地域に工場が建設されたことにより、このあたりは大規模な工業地帯となっていくのです。
この工業地帯こそ、子供のころに社会科の授業で習った日本四大工業地帯の一つ、「京浜工業地帯」です。
しかしこの京浜工業地帯は、戦争時に軍黒工場として稼働していたので戦火にさらされて、終戦当時は完全な焼け野原になってしまいました。
戦後には住民による懸命の復興作業が続きますが、1950年に大きな転機が訪れます。朝鮮戦争による特需によって、京浜工業地帯がさらに巨大に発展しただけなく、川崎は労働者相手の娯楽の街としても急発展したのです。
その娯楽の象徴が映画で、現在のチネチッタ周辺には映画を上映する劇場が作られ、多くの観客を集めたといいます。
また、1949年に戦後復興を目的に造られた競輪場や競馬場といった公営ギャンブル場も、特需を反映して抜群の集客力を示して、街全体を大いに盛り上げていくのです。
さらに1950年代半ば以降になると、京浜工業地帯の人手として、地方からの集団就職者がこの地に集まり、人口が一気に増加します。
それに合わせて川崎駅前とその周辺には、労働者向けの手頃な価格の店や銭湯なども数多くできて、川崎球場でのプロ野球(※当時:大洋ホエールズ)ゲームの開催、元々あった映画館やキャンプル場といった楽施設の充実も相まって、川崎は「一大行楽地」として完全復活を遂げていくのです。
また、江戸時代から盛んだった風俗産業も健在です。戦後、旧東海道沿いにある堀之内地区はGHQによって赤線地帯に定められて、川崎遊郭の伝統はしっかり残りました。
こうして、庶民向けの商店街エリアと風俗エリアが形式上隔離されつつも混在する、「猥雑ながらも庶民が元気に暮らす街」である現在の川崎区の原型は、日本の高度成長を背景にして形作られていったのです。
80年代初頭まで川崎区は怖くて近寄れなかった……? 昭和の川崎の代名詞といえば、川崎駅周辺の「飲む・打つ・買う」が蔓延している環境でしょう。
そこに生きる人は、場末の角打ち(※立ち呑み居酒屋)や赤提灯でコップ酒をあおり、赤鉛筆を耳に指しながら競馬や競輪の新聞を凝視する労働者たち、ピンクのネオン街を闊歩するヤクザやチンピラ、そして呼び込み連中、着の身着のままでその日暮らしのホームレスたちでした。
上空を見れば工業地帯の煙突からは白い煙が立ち昇り、地上では光化学スモッグ警報が鳴っている……。
こうした風景が実際にあったからこそ、川崎以外の人たちは川崎市に負のイメージを持ちました。この強烈なイメージは拭いさられることなく、川崎市全体で、「危ない」「怖い」「汚い」といった負のイメージを背負い続けることになったのです
実際、川崎駅とその周辺は、1980年代中盤まで地元民以外は非常に近付きづらい場所であり、その当時の雰囲気を極端に表せば、まるで「暗黒街」と評されるほど……。
東海道本線、京浜東北線などJRを利用する東京や横浜の住民にとっての川崎とは基本的に「素通りする街」でした。
ドヤ、酒の匂い、風俗、ヤクザ、ホームレス。大げさですが、普通の人は勇気を振り絞らなくては、このエリアに足を踏み入れることができなかったのです。
それが劇的に変化するのは川崎駅東口に日本初のシネコン、チネチッタや、スタンディングスタイルのライブハウス、クラブチッタができる1980年代後半からでした。
1987年には人気テレビドラマ「男女7人秋物語」の舞台となり、地下街のアゼリアが大きくクローズアップされてイメージも大幅アップします。
2002年にはチネチッタとクラブチッタを合わせた複合商業施設の「ラ チッタデラック」が完成。川崎DICEや川崎ルフロンもできて、2007年ぐらいまでには駅舎や駅前が見違えるようにキレイになりました。
そのような駅構内の見た目は「ミニ品川駅」のようでもあり、「蒲田駅」にも似た感じに仕上がっています。
以前は一般人には近寄り難かった川崎駅とその東口には、再開発のおかげで多くの人が訪れるようになりました。
とはいっても、昭和の川崎の匂いが、今の川崎区に残っていることも確かです。川崎駅東口には大きな商業施設以外にも、銀柳街や仲見世通りなどの商店街が入り組み、下町然として、そこはまるで「浅草」のような雰囲気です。
ロック座のようなチッタや縦横に入り組む商店街、隅田川を多摩川と見れば、そこはまさに浅草……。浅草と違うのは観光客風の人たちがいないこと、そして飲み屋の数が半端無く多いことでしょうか。
外国人の姿も多いですが、浅草で見られるような欧米からの観光客では無く、完全に川崎ネイテイヴと化していて、店の呼び込みに精を出しています。
そしてちょっと横道に抜ければ吉原ならぬ堀之内。関東有数のソープランド街が広がっています。
さらに昭和の時代から川崎区の名物にもなっていたホームレスは、再開発によって駅前から追い出されましたが、街中を歩けばその姿が皆無というわけでもありません。ホームレスは公園や河川敷、産業道路付近の旧工場跡の数地などに場所を移して生活しています。
産業道路といえば、周辺には安く大量に酒が飲める立ち飲み屋が数多く存在しています。元々は工場で働く労働者相手の店でしたが、工場閉鎖の影響もあり、今ではおこづかいを減らされた普通のサラリーマンがメイン客!
川崎駅を離れて、八丁畷駅近くの日進町まで行けば有名なドヤ街で、街中には簡易宿泊所が並んでいます。
ここでも再開発は行われていて、すぐ近くに大型マンションが建っていて、街を歩くとそのマンションから圧迫感を受けますが、昭和的な街の面影は今も健在です。
また、新川通りを臨海方面に進んで、セメント通り西側の浜町あたりにはコリアン・タウンもあります。この周辺では近年の不景気で店じまいが相次ぎ、食の街としての活気と存在感はほとんどありません。今では在日コリアンが多く住む、純粋なコリアン・タウンになっています。
このように川崎市でもディープ感満点の川崎区。あえて昭和の哀愁漂う風情を味わうのが流行っているようで、川崎区のディープ・スポットを歩く人の姿もチラホラ見られるようになりました。
それ以外にも、工場地帯を走る鉄道はマニア絶賛の路線として大勢の「鉄ちゃん」が、湾岸の工場は「工場萌え」のマニアはもとより、夜景撮影スポットとして若い男女が訪れます。どうやら時の流れが川崎から偏見を徐々に取り払っているのです。
歴史ある街、幸区は大企業と共に歩んできました。JR川崎駅の東口が川崎区なら、西口に広がるのが幸区です。
川崎駅周辺の再開発によって生まれた、近未来都市のような西口の風景は、東口と見比べると明らかに様相が異なります。
進化著しい西口は未開発部分も多く、川崎駅前周辺の再開発は、いかにも川崎らしいやり方といえるでしょう。
川崎駅西口の近未来的な街づくりとは裏腹に、幸区エリアは縄文時代から人が住んでいた痕跡が残っており、加瀬台の夢見ヶ崎古墳群や、後に江戸城を築いた太田道灌が室町時代に城を築こうとした伝説でも有名な「歴史遺産の街」といった側面もあります。
江戸時代になると、この区域は幕府の直轄領となり、18世紀には塚越や鹿島田などの村が芝の増上寺の管轄下におかれたといいます。
その当時を偲ばせる、寺社などの文化遺産は現在でも各所に残っています。しかし、江戸有数の寺社の直轄地だったとはいえ、このあたりは田舎そのもので、明治の中頃までは農村地帯でした。
やがて鉄道の整備や国道1号線の開通、工業用水水源地の設置も進み、工場立地に最適な条件を満たし始めたことから、大規模工場の進出が始まりました。
それと同時に企業に関連する中小工場も集まり、勤労者向けの住宅の建設が進み、工場と住宅が併存する市街地が形成され、工業都市の様相を見せ始めます。
そして明治末期の1908年に、現在でも幸区の顔ともいえる企業、東芝の川崎工場が開業します。東芝は地元に完全密着で、川崎市は大企業のために住所や駅名を企業の関連名にするのが好きなことから、幸区には小向東芝町という住所も生まれました。
ちなみに1961年に同町に開館した東芝科学館は、企業館の草分け的存在として、市内の子供なら誰でも一度は訪れたことがあるという地元密着型の施設でした。現在の東芝未来科学館は2024年6月末をもって一般公開が終了しています。
さて、昭和に入ると南武線(※当時は南武鉄道)や新鶴見操車場も整備されて、工場の操業が次々と始まり、区内は工業と共に発展します。
第2次世界大戦時には、川崎区と同じく空襲の被害を受けましたが、やがて来る高度成長期によって工場と住宅の集積がさらに進み、市街地は工場と住宅で高密度化しました。
南武線から見える低層の小規模住宅が密集する景色は、当時形成された都市の姿そのままです。派手な色のペンキで塗られたトタン屋根はなんとも昭和的なのです。
幸区では工場の閉鎖や移転も相次ぎ、川崎市はその跡地の再開発を推し進めています。
例えば、2000年には新鶴見操車場の新川崎地区にK2タウンキャンパス(慶應大学と川崎市の連携により開設された研究機関)があり、2003年には、かわさき新産業創造センター(※個人による創業及び企業の新たな事業分野への進出などの支援センター)ができました。
このように、新鶴見操車場跡地の整備計画は進んでいるものの、川崎市の財政事情の悪化により当時計策していた通りには全く進まず、いまだに多くの更地が見られる場所です。
一方、南武線沿線の鹿島田地区の開発は著しく進捗しました。横須賀線の新川崎駅(※川崎駅と間違える人が多いので、駅に「川崎駅からは6km離れています」と書いてある)に程近い鹿島田駅の周辺は、元々昔ながらの家屋が集まり、下町風の雰囲気を持った街でした。
それが住宅開発地区として再開発され、周囲には超巨大なマンション群が建設されました。とくに鹿島田駅と新川崎駅の間にある「新川崎三井ビルディング」と「パークシティ新川崎」のツインタワーは見た目も圧巻です。
これらのマンション、オフィスビルに加えてショッピングモールなども登場し、街としての人気も出てきたのです。
また、幸区の再開発といえば川崎駅西口は非常に目立ちました。ここでは東芝や明治製葉などの工場跡地を利用して、ミューザ川崎、ラゾーナ川崎、ソリッドスクエアなどの施設を建設しました。
ミューザ川崎は最高の音響環境を持ったシンフォニーホールで、「川崎に行くのは嫌!」と川崎を毛嫌いしていた東京と横浜のセレブなマダムを川崎に向けさせたという白物なのです。
ラゾーナ川崎は東芝跡地にできた商業施設で、西口への人の流れを作った功労者的施設であり、ソリッドスクエアは明治製菓跡地にできたオフィスビルです。
しかし、元々は工場と住宅の過度な密集で作られた地域である幸区。各所で派手な再開発は目立ちますが、取り残された地域(※戦前からの古い住宅地)の雰囲気は暗いとされています。
「ものづくりの街・川崎」の伝統を受け継ぐ中小工場は、景気の悪化によって数が減っている状況で、住宅密集地域は元々悪かった治安がさらに悪化しています。
また、大田区を対岸に見る多摩川の河川敷。多摩川大橋の手前を東に向かって、河川敷のゴルフ練習場の先には競馬練習場(※川崎競馬の小向練習場)があり、景色の良いスポットです。
しかし多摩川の河川敷といえば、ホームレスの問題が昔から深刻です。2007年の台風9号による多摩川の大氾濫や、近年の高層マンション建設に伴う立ち退き勧告でホームレスが減ったものの、最近の景気の悪化により、数がまた増加しているようで、河川敷にはホームレスの姿がチラホラ……。
そして鹿島田の最新巨大マンションとは対極にある市営、県営、分譲混合の河原町団地。ここは「団地萌え」といわれる団地マニア垂誕の団地ですが、部外者が平気で出入りできる環境でいろいろあって心霊スポット化しているという話もあります。
しかし建物は堅牢、整備も行き届き、デザインもSFムービーを連想させるような前衛的なもので、建築物としての価値は相当高いと思われます。住環境を考えても川崎駅から近く買い物は便利と、治安を除けば良いことずくめ!
こうして見ると、現在の幸区は再開発を抜きにして語れないエリアなのです。そして、再開発地域とそれ以外の地区のギャップが、川崎の7区の内で最も激しいのが幸区です。
それは幸区が、川崎の最も濃いエキスを受けいでいる場所だからでしょう。バラックやドヤ、格安の飲み屋、多国籍な人種……。
ここは川崎区以上の哀愁が感じられる「リアル川崎」そのものなのです。最も強い光と、最も濃い影が同居する街。
その奥に何があるんだろうと、思わず好奇心に駆られる川崎の迷宮ですが、「一見さん」のひとり歩きは、やめておいたほうが良さそうです。
その勇気を振り絞るくらいなら、夢見ヶ崎動物公園で、ほのぼのと動物たちと戯れる時間が幸せかもしれません。
(年中無休で入園料タダだから!)
「東京都の住みたい鉄道路線」などの特集をすると、必ず上位に入ってくるのが東急東横線です。東横線の都内の人気駅を挙げると、「代官山」「中目黒」「学芸大学」、そして「自由が丘」など枚挙されていきます。
そのような中で、東横線の川崎エリアも人気があります。川崎市内の駅でいうと、「新丸子」「武蔵小杉」「元住吉」です。
これらの駅を最寄り駅とする物件は、独身者だけでなく、ファミリー層にも高い支持を得ている証拠です。
中原区の他路線駅である平間、向河原、武蔵中原、武蔵新城はひとまず置いて、東横線を抱える中原区は現在、川崎市内で最も熱い地域といえるでしょう。
まずはその中心地、武蔵小杉駅周辺です。街もどんどん大開発が進み、近代的な都市に生まれ変わっています。
元々、武蔵小杉駅周辺は小杉村といって、江戸と平塚の中原御殿を結ぶ「中原街道」の中継地「小杉宿」として栄えてきました。
(ちなみに現在の中原区という名称はこの付近の昔の地名ではなく、平塚の中原御殿に行く途中の仮御殿が小杉にあったことに由来しています)
つまり中原区は江戸の昔から交通の要所でした。現在でも府中街道、綱島街道、尻手黒川道路、多摩沿線道路といった主要道が周囲に張り巡らされており、交通至便の伝統は、現在の鉄道事情にも反映されて、特に武蔵小杉は驚くほど充実したインフラ事情を誇るのです。
その鉄道事情について、渋谷、横浜といった主要駅にはどちらも12分程度で到着します。東横線、目黒線、南武線、横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線など、6路線を利用可能となります。
各路線の相互乗り入れも加えれば、関東地方の各県全てに乗り換え無しで行けるのです。
元々、郊外の農村だった武蔵小杉がこれだけ近代的で開けた街になったのも、充実したインフラ事情によるところが本当に大きく、昭和初期にNECや富士通などの大企業がここに工場を建設します。
同時に従業員の社宅も作られて、人口も爆発的に増加していきました。人が増えれば必然的に商業施設なども充実します。
庶民的な商店街や飲食店、風俗店などができる流れで、街はどんどん開けていきました。こうした街形成の流れは川崎区と一緒です。今や再開発で近代的になった中原区とはいっても、ここはやっぱり川崎市なのです。
こうした人口増加の流れは、当地が住工一体の街としてある程度完成されたこともあり、一時、落ち着きを見せていました。ところが、再度人口増加の傾向を見せ始めました。その原因は「景気の悪化」だったのです。
近年の不況で、武蔵小杉駅周辺に影響があったのは、企業の工場移転やその用地の売却に伴う「空き地」でした。
しかし、武蔵小杉駅周辺は、工場やグラウンドの跡地ばかりだったので、まとまった広さの敷地が残されます。そのおかげで、街全体の再開発はスムーズに行われていきました。
さらに川崎市は武蔵小杉を、「溝の口」「新百合ヶ丘」と並ぶ第三副都心と位置付け、積極的に再開発に取り組んでいったのです。
その中で、タワーマンション群や商業施設、オフィスビルなどが駅前に建設されて、さらに様々な公共施設も駅前に設置し、駅前で全ての行政サービスが受けられるなど利便性が向上しました。
この一大プロジェクトによって、人口は再度飛躍的に増加しました。中原区の人口は、川崎市の7区の中で堂々トップ! 今後もさらに人口が増えると記録されています。
中原区といったら武蔵小杉より熱いことはサッカー。今や中原区を飛び越え、川崎市全体を熱くさせているのが、「川崎フロンターレ」です。
フロンターレはその母体が、中原区と関係深い富士通サッカー部。チームは等々力陸上競技場をホームグラウンドに、地域に根差した活動を行っています。
川崎にはフロンターレの他に、もう一つプロサッカークラブがありました。「東京ヴェルディ1969(当時はヴェルディ川崎)」です。
往年のヴェルディはスター選手を抱えた全国区の人気チームで、チーム名に「川崎」を入れていたものの、市民クラブ感は希薄でした。2001年には川崎を捨てて、東京(味の素スタジアム)にホームタウンを移転しました。
川崎市民はそのようなヴェルディの所業に、怒るより先に失望し、そして卑屈になりました。その川崎市民を救ったのがフロンターレでした。
洞落の一途をたどるヴェルディに対して、今やリーグ上位の常連となった「おらが町」のチームは、川崎市民に誇りと自信を植え付けたのである。
フロンターレのホームグラウンド、等々力陸上競技場がある等々力緑地は、各種スポーツ施
設だけではなく、文化・芸術施設も完備した、文教都市・中原区の代表的スポットでもあります。
子どもが思いきって走り回れる場所(等々力緑地)があるのが中原区。ここは子供を育てる環境として最適だといえるでしょう。
中原区を武蔵小杉中心に紹介しましたが、その他にも熱いエリアはいろいろとあります。元々、中原区の商業の中心だった新丸子駅とその周辺は庶民派エリアで、ローカル度満点の商店街が目玉です。
むしろ新丸子は中原区の中で、最も川崎臭が濃い地区といえます。等々力でのフロンターレ戦開催日は、アウェイチームのサポーターがこの辺りを闊歩します。
商店街なら、元住吉も負けていません。駅の西口には「ブレーメン通り商店街」、東口には「オズ通り商店街」と、メルヘンチックなネーミングの商店街があります。
トリビア的なものでは、武蔵中原には、富士通関係者のおかげで、品川インターシティに匹敵するWi-Fi利用数を誇るマクドナルドが存在している(マクドナルド武蔵中原が無線LAN利用率で国内5位)ことが、一部で話題になったりしたのです。
古い川崎の雰囲気が残る溝の口はごった煮の町、高津区。川崎市のセンターに位置する高津区は、「さすがその位置にある」という風情を出しているといいます。
工場、歓楽街、怖い、汚いといった東部伝統の川崎カラーを持ちながら、西部の洗練された住宅地の雰囲気を持つという二面性があります。
川崎カラーというダークな色があるならば、川崎市は東から西にかけてそのグラデーションは薄まりますが、高津区はその中間地点に位置しているので、その両方の要素をバランス良く内包しているのです。
その代表的な街が溝の口です。田園都市線の駅名が「溝の口」、南武線の駅名が「武蔵溝ノロ」、町名は「溝口」と、どれかに統一してくれと思わず叫びたくなるものです。
そのような溝の口という町は、高津区の性格をそのまま表現している場所であるといえます。溝の口の「溝口」とは、多摩から流れてくる、まるで満のように細い川が姿を現す場所。
そのような満の入り口であることから、ここは「溝の口」と呼ばれるようになったと考えられています。
ここは江戸時代に、大山(※現在の神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある山)が山岳僧仰の対象とされて、多くの参詣者が集まりました。
その街道(大山街道)沿いにあった溝の口は、多摩川を挟んだ二子と共に宿場町として栄えました。しかし大きな商業地区として発展したのは昭和初期、鉄道の開通からです。
まず、1927年3月、南武鉄道(現在の南武線)が川崎~登戸間で開業し、「武蔵溝ノ口駅」が誕生します。同年7月には玉川電鉄溝ノ口線が玉川〜溝ノ口(※当時は「ノ」でややこしい!)で開通。
砂利運搬をメイン事業としていた路面電車の玉電がついに全線開通し、溝ノ口駅は現在と同じく2路線の乗り入れ駅として、駅周辺は川崎駅と並ぶ商業地区となりました。
商業地区といっても、砂利運搬で働く労働者たちが集う、飲食店、風俗店などが主な歓楽街として大きく発展します。
戦後になると、溝の口には駅前におよそ百軒ほどが並ぶ闇市があったそうで、溝の口の戦後復興は、この闇市から始まったといえます。
そのような闇市の面影を残す商店街が、現在の武蔵溝ノ口駅脇にまだ残っています。それが「溝の口駅西口商店街」です。
体裁はアーケード街ながら、その長さは非常に短く、陽の光があまり入り込まないので昼間でもやや薄暗くディープな雰囲気を醸し出しています。
この場所にわざわざ出店したかのような、疑似昭和っぽく作られた店も見かけるなど、ずいぶん古くからあると思われる店もまだ残っていて、昭和的な哀愁も感じられます。
この商店街は、過去に消滅する危険が何度もあったらしく、その最大の危機こそバブル時代に始まった武蔵溝ノ口駅周辺の再開発でした。
バブルが弾けたおかげで、一部店舗の立ち退きだけでひとまず事は済んだとはいうものの、再開発で見た目が良くなった武蔵溝ノ口の駅前だけに、行政は闇市時代の遺物をそのままにしておきたくない気持ちが強くあったようです。
その行政の切り札が、元々この商店街のあった土地の一部が川崎市の「私有地」であることでした。私有地だということを盾に、ついに立ち退きを要請するに至ったのです。
しかし、今でも西口商店街は現存しているのは、双方が何かしらの妥結点を見つけたのでしょう。
溝の口駅前周辺の再開発は官民一体で進められたもの。それを担うのは田園都市線の親玉、東急……? と思いきや、溝の口の東急色は極めて薄い。
沿線をセレブに変身させることは右に出る者がないと自負しているのでしょう。東急は田園都市線沿線の開発を都心側から進めることはなく、まず多摩地区からスタートさせました。
この「多摩田園都市構想」では、たまプラーザを「金妻ブーム」に乗るカタチで、世の女性が憧れるハイソな住宅地へと変貌させました。
まずは横浜市青葉区をセレブリティなパッケージで包み込み、次はいよいよ川崎がそれに包まれる番か……と思っていたら多摩川を越えて二子玉川へ。金妻の次はコマダムブームの到来でした。
こうして再開開発で美しく彩られた田園都市線沿線の一部駅の周辺に住民が流入したのです。
そしてようやく溝の口です。川崎的なイメージが強く、雑多な溝の口カラーはさすがの東急をもってしても一気に変え難かったといいます。
さらに溝の口駅前再開発では、まとまった用地の確保も上手くいかず、街ぐるみの都市開発計画を立てられないまま、とりあえず満の口駅を整備する程度にとどまっています。
溝の口駅周辺の再開発で誕生した主な施設は、「ノクティ」。マンションではノクチマダム(溝の口のセレブ)の住居と呼ばれる「パークシティ満の口」などがありますが、周囲には飲み屋や風俗店やバチンコ店がズラリと建ち並びます。
いわゆる「危ない、汚い、怖い」という川崎っぽさがあり、町の統一感が感じられないという意見もあります。
一方、南口は再開発は手付かず状態。駅前に関わらず、プレハブの飲み屋がポツポツと建ち並び、駅に隣接した商業ビルのワンフロアは空き状態。
すぐ近くには単身労働者向けのような古いアパートがあったりして、ここは川崎区や幸区周辺かと錯覚してしまうほど……。
こうして溝の口は、再開発部分と手付かずの部分が混在する町となっています。だからこそ、そのような溝の口の雑多な乱雑さこそ、始めに説明した高津区らしさでもあるのです。
溝の口のような町単位で見ると川崎らしさは感じられますが、高津区単位でも「二つの川崎」の混在は見てとれます。
高津区の北部に位置する二子新地。ここは二子橋が完成した大正時代には、建設関係者を相手にした小料理屋が数多くありました。
やがて多摩川を越えて東京から大勢の旦那衆が遊びに来るようになり、三業地(※料亭、芸者、待合の3つの業種の営業)が形成されました。今は地味なエリアですが、二子新地は元々有名な歓楽街だったのです。
そして高津区東部の下野毛地区。明治期には東京府に属していたところ(※東京都世田谷区に上野毛がある)で、今は町工場の集積地帯となっています。
ここに町工場が集まったのは、戦後、大田区あたりで修行を積んだ工員が独立するとき、交通が便利で物件が安かったのが理由だといわれています。
一方、高津区西部。南武線沿線の津田山は静かな停まいの住宅地です。ここは当地の再開発を計画した玉川電気鉄道社長の津田興二の名を取って「津田山」と命名された場所で、霊園の町としてもよく知られています。
この霊園(緑ヶ丘霊園)の北東側には、閑静な高級住宅地が広がっていて、続々とマンションも建設されています。
最後に高津区南部。田園都市線沿線の梶が谷駅周辺は、東急の多摩田園都市構想の入口にあたる地域です。
丘陵地帯ながら、住宅地として発展しています。つまり高津区は、北東部が工場や歓楽街といった川崎東部のカラー、そして南西部が洗練された住宅地といった川崎西部のカラーに分断されるのです。そして、そのど真ん中にあるのが溝の口ということになります。
宮前区には何があるのでしょうか。答えは「家」です。川崎市内の7つの行政区とその区の中心駅を取り上げたとき、最も地味なのはおそらく鷺沼駅(宮前区)でしょう。
他の駅は2路線以上が乗り入れできる駅ですが、鷺沼は基本的に田園都市線1本だけです。鷺沼駅の見どころといえば「鷺沼車両基地」で、駅の東方に広がる車庫には、田園都市線、大井町線、東京メトロ半蔵門線の車両が留置されています。
この鷺沼車庫は田園都市線開通を機に作られた検車区で、その当時は東急の所有でしたが、相互乗り入れ相手の半蔵門線が路線内に車庫を設けられなかったので、東急が長津田へ移転しました。
今現在、鷺沼車庫(下り線側)は東京メトロの所有となっています。車庫の所有者がどこであれ、鷺沼駅はこの車庫が併設されていることが、実は大きなポイントになっています。
朝は上下線とも何本かの始発電車が運行されている、終始発型のターミナル駅なのです。
朝の鷺沼駅は、座って通勤、通学する始発目当ての客で混み合っています。このような光景が見られる鑑沼、そして当駅を中心地とする宮前区は住宅ばかりの街なのです。
宮前区は1982年に誕生したものすごく新しい区です。元々は高津区に属し、そこから分かれるか
たちで宮前区が発足しました。
ずっと昔までさかのぼれば、7世紀にはこのあたりに人が住んでいたといわれています。江戸時代の宮前は主に果樹栽培が行われていた畑作地帯で、1938年にようやく川崎市に編入されましたが、極度の「陸の孤島」で人口も少なかったです。
その宮前が激変するのは、東急の多摩田医者市民発事業が影響しています。
東急の構想は1953年に当時の東急会長・五島慶太一氏が、大山街道沿いの地主連中を呼んで発表された「城西南地区開発趣意書」にあり、この地区に鉄道を通すことは当時の氏の悲願でもありました。
この計画を進めていく上で東急は、田園都市線建設と一体となって都市開発をする一括代行方式を用いて街を作っていきました。
そうした多摩田園都市開発構想における土地区画整理事業が最初に開始された場所が、現在の宮前区野川の一部でした。
今後の都市建設のためのモデルケースとして開発され、地区内は低層住宅地区と集合住宅地区に分けられ、商店街や公共施設などを併せ持った街が形成されていったのです。
そして、1963年に新玉川線(現・田園都市線)の溝の口~長津田間が着工され、1966年に同区間が開業します。それに伴って、多摩田園都市一帯の都市開発に「ペアシティ計画」が採用されることになります。
「ペアシティ計画」とは、東急と建築家の菊竹清訓氏の立案による都市計画案で、3つの拠点と3種類のネットワークによって都市を構成するというものでした。
3つの拠点とは、まずは「プラザ」。田園都市線沿線主要駅に設置された大規模な複合施設のことです。
次に「ビレッジ」。拠点機能が集積された場所に設置された300戸以上の居住施設と商業・公共施設です。
最後に「クロスポイント」。生活道路の交差点に設けられる付近住民のためのサービス施設です。ここに「交通インフラ」「ショッピング」「緑地」というネットワークが結び付いて段階的に追加や拡充されながら街が構成されていくものです。
SF的な空想ができるとんでもない計画だということはなんとなくわかります。
元々川崎市は、多摩田園都市構想によって、宮前区周辺をべッドタウン化することをあまり望んでいなかったようです。しかし、そのような川崎市の思惑をよそに、着実にベッドタウン化していることは紛れもない事実です。
宮前区には駅が3つ(鷺沼駅、宮崎台駅、宮前平駅)だけで、強烈な鉄道空白地帯ですが、人口は7区中3位。しかし世帯数は5位です。
その理由はファミリー層が多いこと。沿線の大学生もこのあたりに住むなら、たまプラより西(南)か都内を選びます。
宮前に住むファミリーは、たまプラを筆頭とした横浜市青葉区に家を購入できずに住んでいる人か、本当に宮前が気に入った家族のパターンに分かれるのです。
だからこそ宮前マダムの性質は、たまプラあたりのマダムと基本的には変わりません。
「あちらに負けてなるものか!」の思いはおそらくこちらのほうが強いでしょう。そうしたメラメラと燃えるライバル心のベクトルは子供たちにも向けられて、教育に関してはかなり熱心です。
その理由として学習塾の充実ぶりを見えるとわかります。そんな勉強ばかりしている子供も、宮前区は急坂が多いので運動不足にならず、疲れたら家族で近場の温泉施設(※宮前区は超充実!)に行って楽しむこともできます。
そんな丘陵地帯・宮前の主な移動手段は車です。高い自動車保有率は、区内の鉄道事情の悪さと、道路事情の良さが原因だといえます。
こうした宮前区のベッドタウン化はおそらく川崎も予期していたことで、それは1982年の分区が物語っています。
分区しなければここにまだ高津区。人口の大増加した高津区だけでは、きめ細やかな行政のサービスを提供することは困難だったでしょう。そういった意味で、川崎市に先見の明はあったといえます。
小田急線で和泉多摩川駅を通過し、多摩川を渡るとすぐに登戸駅に到着します。登戸駅はJR南武線に接続する川崎市多摩区のターミナル駅です。
そのような登戸駅がある多摩区。この名前を都民に聞いたときの反応も、「どこそれ?」と冷やかなコメントがある中、最も多いのは「東京都の多摩地域」との勘違いです。
東京都の多摩地域とは、昔は南多摩郡、西多摩郡、北多摩郡という3つの郡を合わせた地域を指し、多摩区は以前南多摩郡に属していて稲城市と接しています。
一般的に多摩といえば「東京(多摩市)」というイメージですが、川崎市多摩区も、多摩丘陵にあるので多摩は多摩!
そのおかげで、東京とごちゃ混ぜにされています。しかし、根っからの多摩区民は、ここが川崎だろうと無かろうとあまり気にしていないような気がいます。
怒らず、騒がず、マイペース。おっとりした住民性は、多摩区の風土が牧歌的でのんびりとしていることと関係しています。
川崎市は西に進めば進むほど田舎になります。その川崎市の北西部にある多摩区は、やっぱり田舎です。以前は農村地帯で、最も有名だったのが「多摩川梨」の栽培でした。
また、多摩川がそばを流れる水環境の良さもあって、江戸時代には良質の米の産地としても有名でした。
果物や米とくれば残るは野菜で、もちろん昔から畑作も盛んで、今でも「のらぼう菜」という野菜が多摩区の名産品になっているほどです。
こうした農業の伝統が脈々と続いていることと併せて、豊かな自然環境が身近に残っているのが多摩区の特徴です。多摩川はもとより、多摩丘陵の一角に位置する場所には巨大な緑の宝庫「生田緑地」があるのです。
しかし、多くの自然が残る=未開発地域も多い多摩区は、多摩川をはさんですぐ隣が東京都、さらに小田急線と南武線が走るという好立地で、交通アクセスに優れた場所柄だけに、急速に宅地が開発されていきました。
当然のごとく多摩丘陵を削っての宅地開発はあったのですが、東急によって開発された田園都市線沿線のような、「街ごとどうにかしよう」というドラスティックな再開発のイメージは多摩区にはありません。
1960〜1970年代に造られた多摩丘陵の代表的宅地造成地、港北ニュータウンや多摩ニュータウンのような大規模開発とは無縁なのです。
多摩区の再開発で主だったところは、高度成長期における登戸、向ヶ丘遊園周辺の開発と、2000年以降の登戸駅周辺の再開発が目立つ程度です。
そう考えると、登戸はまるで満の口の縮小版といった雰囲気がします。飲み屋が開くのは早く、駅前のパチンコ屋は大流行り!
そして、登戸で注意したいのは多摩川べり。ニコタマあたりでは考えられないことですが、いい歳した男性が散歩しているだけで、怪しい人間に間違われてしまうのです。いかにも川崎東部のような感じがします。
パッと見、物足りなく見える都市開発の状況は、多摩区の持つ「のんびり感」がそうさせているようにも思えますが、多摩区が考えている街づくりの方向性が原因の一つともいえるでしょう。
多摩区は開発に緑地の保全を指導しています。昔から残る緑を区の財産として考えて、無差別な開発によって、できるだけ街を無機質にしないために取り組んでいるのです。
そのような多摩区の意向やガイドラインもありつつ、さらに多摩区の先には小田急が本気で開発に乗り出している麻生区(新百合ヶ丘)があるので、今後も多摩区に近代的で巨大な住宅地が開発されることはなさそうです。
多摩区も宅地開発によって街を発展させることに興味はそれほどなく、どちらかといえば観光、や文化、学術施設の充実や、そのイベントなどで集客人口や交流人口のアップを図るのです。。
多摩区の観光といえば、アミューズメント施設が真っ先に頭に浮びます。しかし1927年に小田急小田原線の開通と同時に開業した、多摩区のシンボル的遊園地「向ヶ丘遊園」はすでに営業を停止しており、今は「ばら苑」として営業しています。
「よみうりランド」は多摩区内にあって、小田急線の「読売ランド前駅」が最寄り駅のようだが、実は「京王よみうりランド駅」が最寄り駅。
数多く残る果楜園のくだもの狩りは、ファミリー層に人気です。岡本太郎美術館も動員は悪くありません。名言「芸術は爆発だ!」というやつです。
一方、文化、学術による交流人口増加とは、向ヶ丘遊園、生田、読売ランド前に大量にいる大学生と無関係ではありません。
東京近郊で交通の便が良く、安く広い土地が残っている条件を満たす多摩区には3つの有名大学のキャンパスが存在します。
学生や大学と地元住民の交流(※自然体験イベントやコンサート、オープンキャンパスなど)を推し進める多摩区は、学生の街、つまり文教都市を目指そうとしています。
高度成長期に、多くの新住民を受け入れた多摩丘陵。その東の玄関口にあたる川崎市多摩区。選しき郊外型の生活は奥地(麻生区)に任せて、マイベースに進む街。
多摩川の流れと、無造作な自然環境のせいだろうか、川崎市で一番、時間の進み方が遅く感じられるのです。
川崎にして川崎にあらずの麻生区。麻生区は川崎の西の中心地として位置付けられています。とはいえ実際の西の中心地とは、麻生区の一地域である「新百合ヶ丘」を指すほうが正しいでしょう。
新百合ヶ丘駅は1974年の小田急多摩線の開業と同時に建設され、町は川崎市の主導のもとに開発。ここは多摩丘陵を削って造ったニュータウンであり、計画的な都市づくりが可能だったので、駅前には広いターミナルができて、さらに複数の商業施設が建ち並び、やがて美しき郊外都市に変貌を遂げました。
さらに2000年以降になると、駅周辺地区でも活発に開発が行われるようになり、2007年には「新百合山手」などという、アッパー志向のマダムが聞いたら、思わずクラクラするようなネーミングをもらい、住宅やマンションが爆発的に増加していったのです。
その新百合ヶ丘からは「汚い」「怖い」「危ない」などの川崎東部のネガティブ要素は排除されています。住民構成の中心は、開発された新興住宅地に住むファミリー層で、彼らは川崎市民だということをまるで意識していないそう。
というのも、彼らにどこに住んでいるのかを質問すると「新百合ヶ丘(シンユリ)」とハッキリ答えるからです。
「川崎市」という言葉はまず返ってきません。川崎東部の住民に同じような質問をすると、「川崎……」と言うのとは対照的です。
つまり、新百合ヶ丘の住民には、川崎に住んでいるという意識が希渡です。川崎の旧住民が潜在的に持つ川崎へのコンプレックスとは無縁なのです。
麻生区のまるで一枚看板のような新百合ヶ丘。面白くないのは百合ヶ丘でしょう。百合ヶ丘は、昭和30年代に百合丘団地が、映画『喜劇駅前団地』の舞台にもなったように、この地域のベッドタウン化の先駆けといえる町でした。
しかし新百合ヶ丘駅の開業以前、百合ケ丘は小田急電鉄に急行停車の嘆願書を出していたものの了承してもらえませんでした。
ここから百合ヶ丘の歯車が徐々に狂い始めていくのですが、やがて多摩線の開業によって新百合ヶ丘駅が誕生します。
新百合ヶ丘駅は多摩線と小田原線の接続駅として急行もバッチリ停車します。川崎市も北部副都心の拠点として計画的な開発に着手するのです。
こうした新百合ヶ丘開発計画があったからこそ、小田急は隣駅の百合ヶ丘に急行を停車させなかったのかもしれません。
その後、バスターミナルが新百合ヶ丘駅にできたおかげで百合ヶ丘駅の乗降客数は減少します。また、新百合ヶ丘の商業施設に押されてか、駅前商店街も寂しくなる一方です。
また、麻生区は何かにつけて、新百合ヶ丘とその他のギャップが激しいのも特徴です。その証拠に川崎市で最も田舎的な風景があるのも麻生区なのです。
「川崎市7区の特徴を徹底解説!川崎市各区の歴史とイメージ」はいかがでしたか?
長々と執筆いたしましたが、川崎7区にはそれぞれ特徴があり、どのエリアも個性的です。横浜に次ぐ人口の多い街として賑いのある川崎でデートやショッピングをお楽しみくださいね。
この記事は川崎市の結婚相談所「ラポールアンカー川崎」が執筆いたしました。
1993年10月28日生まれ。現住所、神奈川県横浜市。
関東地方で最高峰の頼もしさを発揮している超フレンドリーな婚活アドバイザー。
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